『エヴリデイ』デイヴィッド・レヴィサン 感想
エヴリデイ
著者:デイヴィッド・レヴィサン
訳者:三辺律子
本の内容
毎朝、だれかのカラダで目を覚ます。そして、一日だけだれかの人生を生きる。他人の人生を変えるわけにはいかない、そう思ってた。きみに出会うまでは。
最近どうも本を読む気力や集中力が湧かなくて、こういうときに何か読むならヤングアダルトかなーと手に取りました。
以下感想、少しネタバレあり。
主人公の「A」は自分自身の身体を持たず、精神だけの存在で、毎朝自分と同じ16歳の誰かの身体で目を覚ます。
体の持ち主のフリをして、なるべく問題を起こさないよう日々を過ごすAが、リアノンという同じ16歳の少女に恋をして、自分のことを知ってほしい、明日へと繋がる関係になりたいと望む。
SF作品であると同時に、16歳の恋物語でもあります。
毎日性別も人種も変わり、今日の家族や親友も明日には他人になる。翌日に持ち越せるものは記憶とメールアカウントだけ。
良好な家族関係の家庭で起きることもあれば、違法な労働環境にいたり、病気の子供のこともある。信仰も様々。
Aは歳相応の感性もありつつも、極めて達観的なところもあります。そして孤独。
実際にこのような環境で育った人間がいたら、どのような自己を確立していくのでしょうか。自分の顔すらないんだもの。自分で付けたAという名前も、リアノンに打ち明けるまでは、誰もその名前で呼んでくれることはなかったんだもの。
Aの人生はまるで、毎日違う短編小説の主人公をあてがわれ、その役をまっとうするのを求められているように思えます。
内容は全然違うんですけど、メタ的に自分がフィクション作品の登場人物だと理解している筒井康隆の『虚人たち』を思い出しました。内容全然違うんですけどね。
虚人たちの主人公は、確か作者の意図や小説という世界を意識して行動していたけど、Aは身体の持ち主の性格や過去、これからの人生への影響を意識して行動しているところが、ちょっと似てるなと。
そしてリアノンの立場からすると、毎日別人になる人物との恋愛なんて、本当に成立するのだろうか。
現代ではネットだけの関係で、会ったことも性別も知らない友人がいることなんて、特に珍しくないけれど、実際に目の前に現れる人が毎日別人なんだもの。
Aの身体は男の子の日もあれば女の子の日もある。A自身も明確な性自認を持っていないようだし、このあたりはすごくジェンダーSFしてます。
装画はAが乗り移る人達みたいですね。読んでる途中で気が付きました。この子は誰かなーなんて当ててみる楽しみ方も出来ます。
物語の終盤でAが何をしようとしてるのか気付いたときには、少し切なくなりました。優しいけど、優しいけどちょっとズルい。
単行本で400ページ近いですが、サクサク読めるタイプの本なので、色んな人に勧めやすい作品です。
特に誰かのフリをして生きているという感覚がある人は、共感ポイントが高くなるかも。
そして本作は映画化もされています。
Wikipediaによれば日本では劇場公開はされなかったようですが、Amazon Prime Videoで配信しています。
そのうち見てみたいな。同一人物を様々な人がどういう風に演じているのでしょうかね。演じ分けるのではなく、演じ合わせるとでも言うのでしょうか。
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