『恭しき娼婦』ジャン=ポール・サルトル 感想
恭しき娼婦
著者:ジャン=ポール・サルトル
訳者:芥川比呂志
フランスの実存主義者、サルトルの1946年に初演された戯曲です。ところで実存主義とはなんでしょうか。
ちょっと古い作品なので、アマゾンで検索しても古書ばかりでてくるのですが、私は図書館で筑摩書房の『世界文学全集 64 サルトル集』を借りて読みました。
この作品を読んだ理由は、昨年サヘル・ローズさん主演で本作が上演され、それを観たからです。サヘルさんのファンなんです私。
原作を何も知らずに舞台を観て、これはかなり脚色してるだろうと思い、では何が変わって、何が変わらなかったのかを知りたくて手に取りました。
ただ実存主義の意味も理解してない私には、難しいのではないかと思ったのですが、「おひきずり」など初めて読む古めかしい表現も多いものの、意外と読みやすかったです。
舞台でストーリーも知ってたし、何より話が短いんですよね。
単行本で二段組なので1ページあたりの文字数は多いですが、それでもたった28ページだけ。
あと主人公である娼婦のリッジーが、脳内ではサヘルさんで再生されてとても楽しかったこともあります。
以下、舞台との比較を交えた感想です。ネタバレしてます。
1950年代のアメリカ南部を舞台に、人種差別を描いた作品。
冤罪を被せられて逃走する黒んぼ、冤罪であることを知る娼婦リッジー、リッジーに虚偽の証言をさせようとする、白人のフレッドやその父親の上院議員などの登場人物。
上院議員の巧みな話術でリッジーは、1人の(無実の)黒んぼと、1人の由緒ある家系の、将来が待望される(別の黒んぼを1人殺した)白人の男、1人しか助けられないならどちらを選ぶか迫られます。
街全体で黒んぼを犯人と決めつけ、追い詰め私刑だって厭わないような状況で、そのうちリッジーは何が正しい選択か分からなくなっていく。
果たして私が彼女の立場なら、正しい選択を選べるのだろうか。
みんなにこっちが正しい選択と甘く言われてしまったら、反対の選択肢を選べるだろうか。
引っかかる点を挙げると、ちょっと人物がステレオタイプというか、良い人と悪い人をくっきり分けすぎてる気もします。
昨年上演の舞台では、物語の舞台はアメリカから日本に、黒んぼは朝鮮人に置き換えられてました。
序盤から朝鮮人という単語が出てきてドキッとして、昔の日本を舞台にしてるのかと思えば、登場人物がタブレット端末を操作したりして、わけが分からない。
ただ観ているとだんだん世界観が分かってきて、これは排外主義が進んだ近未来の日本。由緒ある家系の上院議員やフレッドにあたる人物は、憲法改正を成し遂げた偉大な政治家、安倍晋三の血縁だということがわかります。直系の子孫ではないのは、安倍首相ご自身にはお子さんはいらっしゃらないからかな。
舞台で政治的な主張をすることは全然良いと思うのですが、ただ安倍首相と排外主義の結び付け方がちょっと雑というか、飛躍してないかなって思ったんですよね。
もちろん現代日本にも人種差別はありますし、安倍首相のFacebookは保守速報をシェアしちゃうようなところもありますけど。
政権批判をするなら、もうちょっと丁寧にしてほしかったかなと思いました。
ただこの戯曲を読んだ印象は、どうしても昔の話、遠いアメリカの話なんですよね。あんまり身近に感じられない。
それが朝鮮人という単語や、安倍首相の名前が出た舞台では、ぐっと内容を近く感じたのは私にとって事実です。
もし私が舞台の上にいたのなら、それは追いかけられる朝鮮人でも、娼婦でもなく、朝鮮人に私刑を下す、日本人の群衆の中なわけで。
あとは何より、娼婦が舞台ではリッジーではなくサヘル・ローズと呼ばれたり、セリフや設定がサヘルさんの生い立ちを想起させるような当て書きになっていて、
サヘルさんの演技力も相まって、とても真に迫っていたのも大きいです。彼女にしか演じることの出来ない、恭しき娼婦となっていました。
昨年の舞台は大分脚色してると想像して読んでみたけど、ストーリーやメッセージを根幹から書き換えるような、大きな脚色はなかったです。
結末にちょっとアレンジは加わってましたけどね。ラストのサヘルさんによる迫真の演技は記憶に強く残ってます。
サムネ画像用に、いただいたフライヤーの写真を。